脱輪機関車

サブカル全般、思ったことを書き留めたいブログ

『リコリス・リコイル』バディものとしての不満、最終回への期待

※某所に殴り書いた文章を加筆修正・転載したものです

 

最終回直前の今だからこそ、リコリコ12話までの不満と、最終回に対する期待とを書き留めておきたいと思い、記事にしている。

今日の23時30分以降に、ここに書いてある願望と言う名のワガママが、あらかた実現していることを祈る。

 


今期覇権と話題の『リコリス・リコイル』。

11話までは個人的にも大名作で、「失速」なんて声が囁かれようと「どの辺が?」などと思っていたのだが、12話を機に、正直そう言われるのもわかるな…と感じるようになってしまった。
とはいってもよく言われている内容のガバガバ感などはわりとどうでもよくて、自分の中で重視していた・一番見たい要素が中途半端になってきている印象がかなり強かったからだ。
それは、ちさたきの関係性。
11話以前まではなにも気にせず、引っかかりもなく、むしろ他の何よりもちゃんと描けている要素だと感じていたが、12話でのちさたきの問答を受けて、ふたりの間には双方向性が限りなく薄い、ひどく歪な矢印しかないことに気がついてしまった。それこそ真島の言葉を借りるならば「バランスが悪い」のである。


たきなは千束と出会ってから、自主的な判断を褒められ、居場所を提供してもらい、命の大切さを説かれ、相棒であると認めてもらった。だから、たきなも居場所を守るために、自主的な判断で不殺精神に倣い、相棒の命のために奔走する。(仇敵とはいえ)人間に対して「心臓が逃げる!」と言い放つ程の盲目ぶり。たきなは千束に特大の矢印を向けている。
対して千束はどうだ。たきなの人生観にも心境にも大きく変化を与え、居場所を与え、「君がいると嬉しい」とまで言い放った。3話のアレはどう考えても「特別」な相手に対する言動だった。しかし関係性としては現状、3話のアレがピーク。

なんというか、「相棒がたきなだからよかった」みたいな心境を、千束からは感じない。「相棒が欲しかった」のは事実だろうが、「たきなが相棒じゃないとダメ」と、千束は思っているだろうか。

 

千束はたきなに「与える」が、たきなから何かを「貰った」ことがない。戦闘においては何枚も上手(うわて)、精神的にもたきなより成熟しており、千束の欠点をたきなが補うようなこともない。12話では千束の甘さをたきなの非情さが上回るのかと思いきや、結局たきなは千束に言いくるめられてしまう。
…この辺り、単純にバディものとしてどうなの?と、どうしても思ってしまう。見たかったものと違うというだけのワガママだろ、と言われればそう。認めざるを得ない。

が、だとしても、自分が見たかったのはそういうものだ。千束がたきなにいろいろなものを与えつつ、たきなと一緒にいることで何かを得る。そういう、双方向の関係性、それこそがバディものの醍醐味ではないのか。片方が片方から与えられてばかりの、一方通行な関係性を「バディ」と呼ぶ文化は、少なくとも自分の頭の中には存在していない。まあ、この物語が「歪なふたりがバディになっていく話」ならば、また別ではあるが…(だとしても一方通行すぎると思う)。

 

あえて意地の悪い表現をするが、12話においてたきなが行った決死の説得は、千束本人によって「踏み躙られた」。「命を粗末にする奴は嫌いだ」と宣った、同じ口で、自分の命を粗末にする。視聴時、吉松よりもよっぽど千束に腹が立った。本人的には今の人生はロスタイムなのも、他者の命を奪ってまで生きたくないのも、自分がたきなに感情移入しすぎなのも重々承知の上で、それでも腹が立った。「私は本当はここにいない人間だから」とかいうふざけ倒した言い訳にも腹が立つ。先述した通り、千束はすでにたきなの人生を、ある意味めちゃくちゃにしているのだ。実際問題千束は生きてここにいて、たきなに影響を与えまくっている。なのに、この言い分。卑怯、無責任、自己中心的。こんな傲慢なことがあるか。

だが何よりも、そんな千束に対するたきなの説得が、のれんに腕押しで終わってしまったことが、無情感を呼び起こす。「千束が死ぬのは嫌だ」という、切実すぎる心の叫びですら、千束を前向きにはさせられなかった。

いや、むしろ彼女は前向きに諦めてしまっているのだろう。死ぬべき時が来た、寿命を迎えるだけ、くらいの感覚で。

そうなる気持ちももちろんわかる。だが、それでも、「ありがとう」でなく、もっと違う言葉を返すことはできなかったのだろうか。あの場で急な心変わりをするのは当然無理にしても、大切な相棒の言葉でさえ響く素振りすらなかったのならば、これまで見てきた、築かれてきたものは、いったいなんだったのだろうか?

 

つい感情的になってしまったが、リコリコがここから逆転ホームランを打つためには、最終回で「ちゃんとバディものをする」しかない。
実際に銃がバラまかれ、事件も発生しているのに「アトラクションの宣伝でした」で解決してしまうアクロバティックさには悪い意味で驚愕し、制作への信頼が揺らいだが、はっきり言ってそんなことはもはやどうでもいい。最終回において重要なタスクは話の整合性を整えることではなく、この作品の核にちゃんと向き合った上で、三流のハッピーエンドを迎えることだ。
いや、もちろん願わくば一流のエンドがいいけれど、エンドの質など関係ない。いかに無理筋であっても、最終的に千束、たきな、ミカ、クルミ、ミヅキでまた喫茶リコリコを再開し、常連客やらフキやらサクラやらとじゃれ合っているようなカットで〆てくれればそれでいい。
とはいえ、ハッピーエンドで終わるなんていうのは必要最低限のタスクであり、名作として着地させる条件たりえない。今まで歪だったふたりの矢印を調整し、ちゃんと双方向性の物語にする。具体的には、「たきなの影響で」「千束になんらかの変化が起きる」(千束が「生きたいと思うこと」が王道だろうが、正直なんでもいい。変化自体が重要)。マインドの面において、ちさたきが対等になれば、彼女たちはその瞬間、初めてバディになるだろう。そうすれば、「ちさたきがバディになるまでの話」として、初志貫徹して(ある程度)綺麗に〆られる。多くのリコリコファンがどうかは知らないが、そうして終わってくれたなら、少なくとも自分の中では名作判定を下し、スタンディングオベーションで幕引きを見守ることができる。
自分がたったひとつ、期待することはそれだけだ。

 

現状、バディものや百合ものとしてはかなり曖昧になってきてしまったリコリス・リコイル。
最終回次第で、名作にも駄作にもなり得る不安定な状態。
願わくば、3話の頃の高揚感を思い出させるような、そんな作品として、走り切ってほしい。

 

 

 


(でも12話までの千束→たきなの矢印が細すぎるせいで、最終回で急に極太になられたらそれはそれで唐突になりそう、という不安もある)
(そういうのも含めて「上手くやってほしい」としか言えない)